太宰治は『斜陽』『人間失格』など、酒や女に溺れ堕落していく人間を描いた作品が有名です。
タイトルに引用した『パンドラの匣』という小説は、結核療養所に入った二十歳の男から親友にあてた手紙の形式をとっています。
ある日、主人公は同じ療養所にいた若い女の葬儀に参列することになりました。そこで死体を目にして、主人公は次のように思います。
よいものだと思った。人間は死に依って完成せられる。生きているうちは、みんな未完成だ。
虫や小鳥は、生きてうごいているうちは完璧だが、死んだとたんに、ただの死骸だ。完成も未完成もない、ただの無に帰する。
人間はそれに較べると、まるで逆である。人間は、死んでから一ばん人間らしくなる、といふパラドックスも成立するやうだ。
私はこの文を読み、死に対する恐怖が少し軽減しました。
人間は完成するために死ぬのだとすれば、死は決して悲しいことばかりでもないと思えたのです。
また自分の欠点や失敗に目を向けて苦しくなったときには、生きているうちは誰もが未完成なのだ、完成に向けて努力し続けることが大事なのだ、と自分を奮い立たせてくれる言葉にもなっています。
夏目漱石は『坊ちゃん』『吾輩は猫である』などの明るい作品から、『門』『明暗』など暗い作品まで実に様々な色のある作品を残しています。
中でも『こころ』は、多くの教科書に載っている代表作です。
大学生の青年が、鎌倉の浜で出会った男を先生と呼び、二人は様々な議論をして親交を深めます。
ある日先生と私は散歩中に恋の話になり、先生が「恋は罪悪ですよ」と言った後、次のような会話をします。
「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。
「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。
「なぜですか」
「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」
私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。
「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」
「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」
「今それほど動いちゃいません」
「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」
人間は生命維持だけでは満足できず、自分の生きる意味が必要な生き物だと思います。
生きる意味を見出すため、自分の存在を認めてくれる場所を探すのです。
それは恋人かもしれませんし、友人や仕事に求めることもあるでしょう。人間は誰しも、不安から解放され、満たされたいために動くのです。
しかし、その目的物を完全に得ることは難しいでしょう。
逆に言えば、人間は満たされない思いを抱えて動くことで、少しずつ生きている意味を自分に与えていくしかないのです。
不安を紛らわすために目的物を探して落ち着こうとする自分への、戒めになる一言です。
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中島敦は、『山月記』『李陵』など中国を舞台とした漢文調の文体で有名な小説家です。タイトルに挙げた名言は、『悟浄出世』という小説にあります。
妖怪である悟浄は、自分の存在に悩み心の病になります。そこで教えを乞うため旅に出て、沙虹陰士という蝦の精に出会います。
悟浄が自己や世界の究極について問うと、陰士は次のように述べます。
自己だと?世界だと?自己を外にして客観世界など、在ると思ふのか。
世界とはな、自己が時間と空間との間に投影した幻ぢや。自己が死ねば世界は消滅しますわい。
自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。
世界が消えても、正体の判らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。
世界があって自己があるのではなく、自己が世界という幻を作っているのだと陰士は考えます。
だとすれば、世界の限界を決めつけて自己を制限するよりも、自己にとってよりよい世界を自分自身で創り上げていくこともできるのではないでしょうか。
世界をよくするのも悪くするのも自分次第なのです。世界は自分を変えれば、いくらでもよくなるのだと思える言葉です。
名言とは、言葉によって心を癒す泉だと私は思います。
苦しみを解する人から発せられた言葉は、我々を絶望の淵から救ってくれるのです。
生きることに疲れたときは、これらの名言を心の中で唱えてみてください。
少しだけ、見える世界が変わってくるはずです。
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